遠慮あれこれ

歳が明けましたので、昨年の十二月半ばの頃のことです。前にも書きましたように、本山にいるときは、食事は外食しなければなりません。この日は教学部長さんと一緒に、顔なじみの店に晩御飯を食べに出かけました。

店に入るとがら空きです。カウンターの入り口に近い所に、名前は知りませんが、何度か会ったことのあるお客さんが一人だけ。「どうしたの? えらく空いてるね」と聞くと、観光シーズンが終わり、最近は毎日こんな状態だとのことです。いつもは賑やかな店が嘘のように静まり返っています。

一番奥のカウンターに坐ろうとしますと、店の主人が、「こんなに空いているのですから、そんなに隅っこに坐らず、どうぞこちらへ」と、カウンターの中央の席を勧めてくれました。「いいよ。人生いつも遠慮しながら、隅っこで生きているのだから、ここが性に合ってるんだ」と答えると、「えっ!? 亀山さんが隅っこで生きてるって!? 本山の部長までして、充分真ん中で生きておられますよ」と、主人。「立場のことではなく、そういう気持ちで生きてるということさ」と、私。そんなことを話しながら、でも、カウンターの両端にお客さんでは主人も応対に困るだろうと思い、教学部長さんと中程に坐ると、「喫茶店などでも、席は隅から埋まるといいます。隅がいいというのは人間の習性らしいですよ」と、先のお客さん。「そう、そう。それは前に読んだか、聞いたことがあります。太古の昔から、自分の身の安全を守るためで、遺伝子にもそれが組み込まれているそうです。法話会や大学の講義などで、端の方から坐り、真ん中が空いているのは話しづらくていただけませんがね」と、布教師でもある教学部長さん。

「でも、遠慮は難しい。しないと横柄になるし、し過ぎると他人行儀になってしまうし、程度が難しいですよね。遠慮という単語は元々は中国でできたのですよね」と、お客さん。「論語に、『遠き慮り無ければ、近き憂いあり』という文章がでてきますが、元々はその意味で、遠い先のことも良く考えることです」と、教学さん。そこで、カバンの中から電子辞書を引っ張りだして、「遠慮」を引くと、

  1. 人に対して、言葉や行動を慎み控えること。
  2. 辞退すること。また、ある場所から引き下がること。
  3. 遠い将来のことを思慮に入れて、考えをめぐらすこと。深謀遠慮。
  4. 江戸時代、武士や僧に科した刑罰の一。軽い謹慎刑で、自宅での籠居を命じたもの。夜中のひそかな外出は黙認された。

と出てきました。原義は3の意味だとのことです。

「亀山さんが遠慮と言ったのは、最後の意味ですか。何を悪いことしたのですか?」と、主人に冷やかされてしまいました。形勢不利。こんな時は話題の方向転換をするにかぎります。「悪いことなんかしてませんよ。夜、こうやって出てくることができるのですから、いいじゃない。宗務本院はこの頃、出前がなくなって、お昼を食べるのにも難儀をしてるんですよ。夜も出られなかったら飢え死にですよ。それより、何の気なしに使っていたけど、遠慮っていろんな意味があるんですね」と、私。すると、「元の『遠い将来のことを考えて』ということから派生して、慎み控える意味や辞退するという意味が出てきたということですよね」と、お客さん。そこで、また私の電子辞書の出番です。私の電子辞書は大振りの手帳サイズながら、日本語の辞書、英日辞典、日英辞典、そして中国語の日中辞書と中日辞典まで入っています。中日辞典の「遠慮」を引くと、3. の意味しか載っていません。ということは、中国語では1、2や3の意味はないのですから、日本語に入ってからそれらの意味が派生したということになります。

「最近の中国は随分と発展し、高速道路も整備され、バスで移動する時は一般道路を使わなくなりましたから、あまり出くわさなくなりましたが、十数年前はすごかったですよ。田舎に行きますと狭い道をトラックやオートバイ、自転車がひしめきあって、人は多いし、ゴチャゴチャでした。その中を、バスが進むのですが、誰も避けようとはしません。先に先にと突っ込んでいくのです。少し待って、お互い譲り合えばスムーズに通れそうな時も待ちはしません。クラクションを鳴らしながら、我先にと強引に進むのですから、かえって時間がかかり、渋滞をしばしば起こしたものです。中国の車にはバックギアが装備されていないんじゃないかと笑ったものです」と、私。「それは、先の方だけを見てるからですよ。考えをめぐらすところが足りない。強引に突き進むところは何か、今の中国政府のようですね」と、主人。「法律や規則で規制するということは、それができていないから、縛らねばならないのです。孔子が論語の中で、遠慮を説いたのも、それができていないからです。昔も今も、人間はあまり変わっていないということですよね」と、教学さん。

すると、先のお客さんから、「遠慮で思い出しましたが、この時期、喪中の葉書が来るのですが、『喪中につき、新年のご挨拶ご遠慮申し上げます』とか『ご遠慮いたします』という表現、どう思いますか?」との質問です。「ああ、それね。私もおかしいなと思います。昔の考えでは死はけがれですから、けがれが伝播しないように喪に服し、社会から隔絶されたわけです。一年の門出を祝う神聖な新年に、けがれた者から挨拶を受けることは誰もが喜ぶことではありませんでした。だから、服喪中の身である自分はそれを慎み、ご挨拶を失礼させていただきますというのが本来の姿だと思います。『ご遠慮申し上げます』という表現は丁寧には聞こえますが、内容は辞退しますということですから、何か傲慢さを感じますよね」と、私。「そうでしょ」と、お客さんは我が意を得たりと納得顔。実は、十年前、先代和尚が亡くなった時、喪中の葉書を出そうと業者に見本を見せてもらったのですが、ほとんどこのような表現ばかりでした。おかしいなと思い、『新年のご挨拶をご無礼いたします』だったか『失礼いたします』だったか記憶は定かではありませんが、変えてもらったことがありました。その話をすると、その方が筋ですよねと、皆で納得。

【閑話休題】

今まで、喪中の葉書が来ても誰かを見るだけで、下の文章まであまり意識したことはありませんでしたが、昨年の暮れはこのような会話がありましたので、自然と目が行きました。二十通ほど喪中の葉書をいただきました。その内、七通が『失礼いたします』でした。『ご遠慮申し上げます』に疑問を持っておられる方がやっぱりみえるのですね。感心いたしました。

それからしばらくは四方山話。話題は自然と経済の問題になっていきました。米国のサブプライムローン問題、米国の自動車産業の衰退、それが世界経済に波及して、今や世界的な不況になってきました。日本でも、トヨタをはじめとする自動車産業、その関連会社の経営悪化、失業者の増加、それが長引けば、犯罪の増加や社会不安にもつながります。日本の人口は一昨年あたりがピークで、減少の一途をたどると予測されていますが、更にそのスピードが加速されるかもしれません。人口の減少は国力の低下をきたします。これから先、どんな世界になっていくのだろうかと、酒のサカナに思い思いの話でにぎわいました。

それにしても、テレビや新聞の報道を見ていますと、何でこうも自分の金銭欲を満たすために四苦八苦するのだろうかと、唖然とすることばかりです。お金があれば楽に生活することができるから、お金を集めることに必死になるのですが、貯めれば貯めるほどお金に対する執着が起こります。何億円も庭に埋めておいて、それを盗まれ、ショックで亡くなってしまったのでは、笑い話です。子孫のためにと莫大な遺産を残しても、反ってそれが仇になることは多々あります。お互い持ちつ持たれつ、生かし生かされているこの社会です。欲も適当にしておかなければなりません。

『満つれば欠ける』と言います。月は新月から一日一日丸みを帯びて満月になります。満月になればその先は欠けていくだけです。それが世の常と古人は言いましたが、何の努力もしないでみすみす欠けていくのを傍観していたのでは能がありません。今、私たちは一度立ち止まり、環境問題、経済や社会の問題、心の問題など、一人一人が遠い将来を見据えて、よく考えねばなりません。この現状は、あまりに自分勝手な私たち人間に対する警鐘だと思います。

「ところで、二兆円のバラマキ、決まったら貰いますか? 遠慮しますか?」と、例のお客さん。「そりゃあ、貰いますよ」と、他の全員。「貰ったら何に使う?」「きっと分からないうちになくなってしまうというのが実情だと思う」と、主人。「深謀遠慮して、大切に使いますよ」と、教学さん。「貯金しますよ」と、私。「定期でも作っておいて、孫に、『昔、我が国ではこんなことがあって、お前たちに借金をしたんだ。これはその時のお金だ。お前の分だから遠慮せずに取っときな』と言って、渡してやろうかな」と言うと、「そんなこと言わずに、ウチでパッと使ってくださいよ。いつも大体、飲んで食べて一人三千円ほどでしょ。三回も四回も来れますよ。是非、ウチで遠慮せずに使ってください」と、主人。みんなで大笑いでした。

いよいよ二兆円の定額給付金の支給の法案が可決されました。皆さんはどう使われますか。


美味しく一盃

早いもので、本山東福寺の部長として京都へ行くようになって、もう五年が過ぎようとしています。

東福寺の宗務本院は、宗務総長の下に法務、教学、財務、庶務の部があり、それぞれに部長がいます。部長は東福寺の塔頭(たっちゅう。本山の山内寺院)の和尚と末寺の和尚で二分するということが慣例となっていますので、現在は法務と財務が塔頭、教学と庶務が末寺から出ています。昨年までは、法務と庶務が塔頭で、財務と教学が末寺から出ていました。職員はみな通いですので、本山の大慧殿(宗務本院の事務所のある建物。総長や部長の部屋もある)に泊まるのは、三人だけです。

部長といえば何かよく聞こえますが、実際は実にわびしいものがあります。部屋は用意されていますが、食事はついていません。昼は職員さんたちと一緒に店屋物を取ってもらいますが、朝食と夕食は自分で用意しなくてはなりません。朝は前の晩にコンビニでおにぎりを買っておき、食べます。この寒い時期、冷たいおにぎりを一人で食べるのは実にさびしいものです。自坊(自分の住職している寺)に居れば、温かいご飯と味噌汁を食べることができます。家内の有り難さを本当に実感します。

夕食もコンビニの弁当では余りにもさびしいので、食べに出ます。それぞれが自分の仕事の都合で動いていますので、三人が一緒に食事に出かけるということは、たまにしかありません。東福寺の辺りは京都では片田舎ですから、晩の食事ができる所はほとんどありませんでしたが、昨年の春にJRの東福寺駅の前に安い店ができました。最近は、そこへ時々寄ります。常連というほどではないにしても、何回か行っておれば顔も覚えられます。結構、その店のお客さんたちと話をすることもでき、楽しく過ごすことができます。京都にたびたび行っていても、本山の事務所で仕事ばかりで、観光に行っているのではありません。夜の一杯は大目に見てください。

寺報新幹線の京都駅で降り、奈良線の東福寺駅に着き、もう夕食時でしたので、本山に行く前に夕食を食べることにしました。そこで、その店に入ると、居ました、居ました。常連のお客さんが。一人は四十歳くらいの工務店の経営者のKさん。それと、もう少し若い広告会社に勤務のSさん。もう一人、三十歳ほどの女性のお客さん。この女性の名前は知りませんが、たいていこの三人は一緒です。帰る時はバラバラですから、この内の誰かと夫婦ということではないようです。

私の顔を見て、Kさんが手招きしますので、傍の空いた席に坐りました。お酒を注文すると、その女性が、「前から聞こうと思っていたけど、お坊さんがお酒を飲んでもいいの?」と聞いてきました。「飲みたければ飲めばいいさ」と、私。納得がいかない顔の彼女は、「お釈迦さまがお酒を飲んではいけないという戒律を作ったのでしょ。お坊さんはその戒律を守るべきでしょ」と、突っ込んできます。 かなわんなぁと思いながら、「日本ではいいの。お釈迦さまは暑い国だから飲むなと言ったのであって、寒い日本ではそれに縛られなくてもいいんじゃないかと思うよ。例えば、中国の布袋和尚はヒサゴを持って酒屋にお酒を買いに行ってるし、日本の空海さんは高野山は寒いから一杯だけならよいと飲酒を認めてるし、一休禅師がお酒を飲んだことも有名な話でしょ」と、私は自己弁護。彼女は面白くないという表情です。

出されたお酒を飲みだすと、「この間、国会で話題になっていたが、宇宙人は居ると思う?」と、Sさん。「宇宙人、居ますよ」と、私。「え!? 居ると思うの?」と、その女性が意外な顔。そして、現在の宇宙科学の発展と、その力をもってしても、地球のような環境にある惑星は未だ見つかっていないことを力説してくれました。そして、「居るなんて非科学的だわ」と、一言。そこで、私が、「居るさ。外の惑星は知らないが、私たちは大宇宙の中の地球に住んでいるのだからみんな宇宙人さ」と言うと、みんなびっくりした顔。「確かに。宇宙の中では私たちは宇宙人ですよね」と、Kさん。Sさんも同意してくれました。しばらく考えていたその女性が、「立場を変えてみれば、物事は違ってみえると言いますが、月から見た地球の映像をテレビで見たのを今思い出しました。私たちが宇宙人ですよね」と考え深げな顔です。

「もっと言うと、大宇宙に今存在している自分を仏教では小宇宙と言いますが、この私の小宇宙からすれば貴方たちそれぞれが別の小宇宙なのですから、私にとって貴方たちは別の宇宙人ということになるでしょ」と、仏教の宇宙観をちょっと披露。「小宇宙?」と、Sさん。「そう、小宇宙。大宇宙は厳然と真理により動いています。その真理に違うことのない真理が私たちに内在されています。だから、小宇宙なのです。よく考えてみてください。私たちは本当に尊い存在なのですよ」と、私。

寺報それからしばらくは店の主人と他の話をしていました。話が途切れた時、静かだったその女性が、「私は、戦争ばかりしているイスラム教も、処刑された十字架を礼拝の対象にするキリスト教も好きではありませんが、仏教も嫌いです。私達の日本には物を大切にする『もったいない』の精神があります。そのような教えは仏教にはないでしょ」と、驚くような発言をしました。それには、私だけでなく、「もったいないの精神は仏教からきているのではないの?」と、他の二人も驚いたようです。「え!? そうなの。日本古来の考え方ではなかったの」と、彼女。僧侶である私が答えねばなりません。「勿論、それは仏教の教えです。ノーベル賞をもらったワンガリ・マータイさんが日本の精神として『もったいない』を紹介し、その精神を世界に広める運動をしていますが、その精神は仏教からの教えにより構成されたのです。千五百年もの昔、仏教が日本に伝来し、聖徳太子が国政の基本理念とし、その教えは深く日本人に染み込みました。最近は随分とその精神は薄らいできてはいますが、自分が意識しているといないに関わらず、否、それを意識しないほどに染み込んでいるのですから、それは日本の精神と言ってもいいのですが、元は仏教の教えです」と、私。「仏教って、お払いしてもらったり、願掛けしたり、先祖の霊が何だとかというのが教えでしょう」と、彼女。すると、「そういうのもあるが、それは金儲け主義の坊さんの言ってることで、本来の仏教とは異なっているのだと思うよ」と、Sさん。「テレビで細木さんの言ってることを鵜呑みにして仏教を見ると、間違いだと思うよ」と、Kさん。二人が有難い助け舟を出してくれました。

寺報「仏教は永い歴史の中でいろいろと変化してきたのは事実です。日本に多くの仏教宗派があるのは、その影響です。他宗の教えを誹謗する気はありませんが、禅宗の立場からすると、先ほど言われた教えは仏教の本来の教えではありません。仏教は、お釈迦さまの悟りを中心とすべきで、先ほどの宇宙の真理、仏性の目覚めを求める教えであるべきです。ですから、禅はそれを求め、修行をするのです」と、私。「修行って、何か特別な霊的能力を得るためにやっているのではないのですか?」と、彼女。「それを求めて修行している宗派もありますが、禅宗の修行ではそのような力を得ることを目的としてはいません。お釈迦さまは、「悟って、霊的な能力を得た」とは言っていません。悟られて、その眼から見たら、「不思議なことにことごとく誰でも彼でも仏性を有している」と言われました。ですから、修行は、お釈迦さまの悟りへ向かっての追体験で、貪りや怒り、それと愚かさという心の中の毒を消し、本来の自己を見極めるということです。そのため、修行僧は極力無駄を省き、物を大切にした生活をするのです。それこそ、『もったいない』の精神ではありませんか」と、私。その女の人の表情が少し変わってきました。そこで、「自分が尊いことに目覚めれば、貴方も尊い存在だということ。それは、何も人間だけではなく、米でも、魚でも、水でも、酒でも、みんな尊い存在ということです。尊い存在であるが故に、無駄にしない、有難いということになる。ですから、仏教は、『和』を説き、『もったいない』の教えということになるのです」と言うと、「では、その尊い存在としてのお米や魚、お肉なんか食べてもいいのですか?」と、その女性。「仕方ないじゃありませんか。食べなければ生きていけません。生きるためには、食べなければならないのですから、その尊い命をいただく時は、『有難う』『命を奪ってしまって、ごめんね』と、感謝の気持ちを持たねばなりません。ですから、酒をいただく時は、こうやって、お美味しく、気持ちよく、感謝しながらいただいているのです」と、一杯飲みました。「本当に美味しそうに飲まれますね。感謝の気持ちを大切にしながらのお酒の方が身体のためにもよいですよね。上司の悪口を言ったり、不満をお酒にぶつけたりでは申し訳ないですよね」と、彼女は随分と初めの頃の雰囲気とは変わってきました。家内や娘たちから、「お父さんはお酒を飲むとくどくなる」と、いつも言われていますので、深追いは厳禁、厳禁。え? もう充分にくどいって!? まあ、ご寛恕のほど。それからしばらくいろいろな話に花が咲きました。

帰る時、その女性が、「和尚さん、今日はいろいろと教えてくれて有難う。私、仏教のこと思い違いしていました。これから、仏教にもっと関心を持ちたいと思います。また会った時にもよろしく」と、笑顔で手を振ってくれました。

私達人間は、とかく思い込みの世界に陥りやすいものです。よく見て、よく聞いて、よく考えることが大切です。お仏壇の前でおまいりする時は、謙虚に自分を見詰めたいものです。


一期一会

ことの外暑かった今年の夏。いつまでも暑く、いったい何時になったら涼しくなるのか心配しましたが、庭のイチョウの木も黄色くなり、今ではすっかり秋の景色です。十一月の半ばまで青かった本山東福寺のモミジも、ここのところの急な冷え込みで随分と色付いてきました。

ところで、今年の春より本山の役職が交代しました。昨年度までは教学部長の職でしたが、今年度より庶務部長になりました。カレンダーには本山の仕事は赤い字で書き込みをしていますが、今年は、昨年よりも赤い字が多く目立ってきています。教学の仕事よりも庶務の仕事の方が広範囲にわたっていますから、それは当然のことといえば当然のことなのですが、不在が多くなりました。

特に、九月の末からは連日のように本山と自坊(自分が住職している寺のこと)を行ったり来たりで、席の暖まる暇がないほどでした。そんな中、十一月十六日に名古屋外語大学で留学生を対象に、茶道についての講義を一時間半の予定で行いました。この大学での講義は数年前、当山に本部がある茶道宗吉田流の先生を通じて依頼があり、それから年に一度、日本文化についての講義の一環として行われているものです。年間を通じては、日本文化を知るためのものですので、いろいろなジャンルの方が講師になられるそうです。

受講生は留学生だけです。アメリカ、欧州、アジアなど、多彩な顔ぶれで、五十名ほどが参加します。中には、私の日本語を聞いて頷いている学生もいますが、まだ日本語が堪能ではない学生もいますから、英語の通訳が入ります。ですから、一時間半といっても、実際はその半分ほどの時間となりますので、充分な時間がある訳ではありません。茶道の歴史の概略、精神、作法など、多岐にわたっての内容を短時間にすることとなります。何時ものことですが、ついつい時間をオーバーしてしまいます。

資料は最初の時に英語の注釈の入ったものを作ってくれましたから、毎回それによって講義をしますが、印刷された資料だけでは分かりにくいと思い、掛け軸、花入れ、茶入れ、茶杓、茶碗、茶筅など、懐紙や抹茶にいたるまで実物を持っていきます。今年は、掛け軸は沢庵禅師の墨蹟、利休の書簡、流祖宗の道歌、花入れは宗の師の宗旦の竹一重伐り、宗の尺八伐りという具合で、お茶の精神の話に使えそうな物を持参しました。

茶道の精神に関しましては、『和敬清寂』『一期一会(いちごいちえ)』という基本的なことを話しますが、今回は、特に、花のこととからめて話をしました。というのは、当日の朝、庭のツバキ(西王母)がちょうど見ごろで、花も葉のなりも素晴らしい一輪がありましたから、殺風景な講義室を思い、持参することとしたのです。そうすれば自然と花に目がいきます。竹の花入れに一輪のピンクのツバキ。茶道の花の入れ方の話をし、それは禅の思想からの影響であることを説き、岡倉天心の『茶の本』に詳しく書かれていることを話しました。

茶道と禅は切り離して考えることはできません。『和敬清寂』にしても、『一期一会』にしても、禅の教えに基づいています。できるだけ分かりやすいように、概論を話しました。

午後一時二十分からの講義ですので、一番眠たい時間ですが、みんなよく聞いてくれます。日本の大学生は講義中に寝ていたり、私語が多いとよく聞きますが、ここの留学生はそんなことはありません。私語もなければ、寝ているようなこともありません。実にまじめに聞いています。それは当然のことだと思います。留学生は日本について学ぼうという意識で、遠く外国から来ているからです。日本の学生は、全部が全部とはいいませんが、大学卒の資格を取りに行っているのが実情で、何となく学生をしているのです。だから、講義が面白くなく、寝たり、ベチャベチャと話をすることとなるのです。そこには基本的な意識の違い、主体性、自主性など、はっきりとした違いがあります。なにしろ、留学生たちは真剣です。講義が終った後も、質問をしに何人も来ます。

その内の一人が、先ほど話した『一期一会』について更に質問をしてきました。先ほどの概論としての話だけではなく、禅の立場での深い話をして欲しいということでした。この講義の初めに通訳の方が、私が禅宗の僧侶であり、臨済寺の住職、本山東福寺の部長、茶道宗吉田流の会長であることを紹介してくれましたので、興味を持ったのだと思います。一期一会とは、一期は自分の一生の意で、個々の茶会は同じことが再び繰り返されることはないのですから、茶会の時は主客が全身全霊を挙して茶の応接をし、道を現成させねばならないということですが、その留学生はこの程度の説明には飽き足らないのです。そうだと思います。この説明では、概略しか話していないからです。

仏教は、お釈迦さまが苦からの解脱を願い、六年の苦行の結果、苦行では悟りを得ることができないことに気付き、菩提樹の下で一週間坐禅をし、十二月八日の朝、明けの明星を見て悟りを開かれた、その体験を基に開かれた教えです。その内容は八万四千の法門といわれ、簡単に説くことはできませんが、『誰でも自らの内に仏性を有する』ということが中心であるといっても過言ではありません。そこで、禅では、坐禅をしたり、托鉢や作務(仕事)、掃除など、生きている即今この場で、そのことと一つになり切ることによって、心の中の三毒(貪り、瞋り〈いかり〉、痴〈おろかさ〉)を捨て、自己本来の面目(仏性)に目覚めるよう、お釈迦さまの悟りの追体験をするのです。しかし、悟りを目的や目標としてはいけません。・・・この時、留学生たちは理解に苦しんだ顔をしました。

中国の唐の時代の禅僧に次のような話があります。ある禅僧の下で修行している修行僧が真剣に坐禅をしていました。その真剣な姿を見て、禅僧が、「お前さんたちは、ここで何をしているのか?」と訊ねます。「坐禅をしています」と、修行僧。「どうして坐禅をするのか?」と、禅僧。「坐禅をして、仏になりたいからです」と、修行僧。「では、仏となるために坐禅をしているのか?」と、禅僧。修行僧は当然のことといわんばかりの顔をします。すると、その禅僧は近くにあった瓦を取り、真剣に磨きだしました。不審に思った修行僧が、「老師、一体何をなされようというのですか?」と訊ねますと、「この瓦を磨いて、鏡を作ろうと思ってな」との禅僧の答え。

禅僧は若い修行僧に何を伝えようとしたのでしょうか。そこには深い意味があります。よくよく考えねばなりません。

因みに、悟りを目的にするなということと関連していうならば、目的とすると、そのものへの執着心が起きます。執着することを、禅では嫌います。生きるための仕事にしても、それは手段です。手段を目的としてはいけません。目的や目標として行なうと、それを達成した人は、まだ達成できない人を馬鹿にしたり、増長慢の心が起きたりします。増長し、慢心すれば、その人はそこに停滞し、更なる向上心は起きません。だから、禅では、悟りは勿論、生きる上での目的や目標を作ることを嫌います。自分が選んだ道を歩みながら、今この立場でやらなければならないことに主体的に全身全霊でもって当たっていく、そこにこそ禅が求める生き方があるのです。

茶人は本来、この禅の立場に立ち、自己に内在する仏性に目覚めるよう精進する人でなければなりません。お茶を出すことを通じて、主人も客も、目覚めへの道を求究することが茶道の道たる所以なのです。

そこからすると、一会を意義有り、充実したものとするには、亭主も客もそれぞれが主体的にその立場に成り切っていかなければなりません。主人がいくら主体性をもって接しても、客が客に成り切っていなければ、面白くもなく、意義ある会とはなりません。逆に、おざなりの亭主では、客がいくら客に成り切ってもそこに道が行なわれることとはなりません。亭主も客も、それぞれが主体的に、それぞれの立場や役割に成り切ってこそ、意義ある一座となるのです。茶道は、その実践行なのです。

一期一会は茶道の世界ではよく使われる言葉ですが、よく考えてみれば、何も茶道の世界だけに閉じ込めておくことはありません。今のこの時を大切に、主体性を持って力いっぱいに生きていくことを説いているのですから、普段の我々の生活にも充分に活用できますし、生かさねばなりません。ですから、茶の湯の道は、実生活と離れたものではありません。

講義が終わり、留学生が茶の道具を興味深げに見に寄って来ました。しばらく道具の説明をし、道具を片付け終わったのは、もう四時でした。  大学を出る時、何気なく、カーナビの目的地の『自宅へ帰る』を押しました。もう何度も来ている所なので押さなくてもよかったのですが、押してしまったのです。名古屋インターに近付いた所で、私の古いカーナビが右手に行くようにと指示をしました。指示通りに右手に寄って走って行くと、東名高速道路のインターとは違う方に行ってしまうではありませんか。「しまった」と思った時はもうすでに時は遅しで、後続の車が列をなしており、バックすることもできません。こんな所でバックして、事故でも起こしたら、新聞に載ってしまいます。仕方なく前進すると、名古屋高速道路に入ってしまいました。時間はかかるし、料金はかかるし、いらない目的地をセットしたばかりに、悲惨な思いをしました。

間違った情報には気を付けましょう。自分の目でしっかりと確かめ、主体的に生きるよう精進しましょう。


窮して変じ 変じて通ず

この冬はどうなっているのでしょうか。京都の本山への行き帰りの関が原の雪景色を楽しみにしているのですが、全く雪はありません。暖冬とはいえ、異常としか言いようがありません。

禅の修行道場では、お釈迦さまが十二月八日に成道された故事に因み、その恩徳に報いるために、十二月一日より八日の朝まで臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)を行います。この期間中は昼夜を分かたずに、また横に臥すこともなく、ひたすらに坐禅・修行をします。接心は年に六回行われますが、この臘八大接心は特に厳しい修行の期間です。私の修行した正眼寺では、十二月ではまだ暖かいからと、大寒中の一月十五日から二十二日の朝までをその期間としていました。

接心中は毎日『提唱』といって、『無門関』や『碧巌録』などの祖録を講本として宗旨の大要を提起し演法する時間があります。本堂の本尊さまに向かい合うように提唱台を設け、老師が提唱するのを修行僧は両脇にて坐禅をしながら拝聴します。私が修行時代、大寒中といっても暖かい日がありました。すると、老師は提唱中に提唱台の上から、「何だ、この暖かさは。臘八大接心だというのにお前たちがのんびり構えているからだ。気概が足りん」と、大きな声で叱咤し、奮励するようにと獅子吼(ししく・仏が説法するのを、獅子が吼えて百獣を恐れさせるような威力にたとえた語)されたものです。今年のこの暖かさでは、正眼寺の今の老師もきっと地団駄を踏んで、大声を出されていたことと思います。

臘八大接心の頃になると、いつも修行時代の臘八大接心のことをいろいろと思い出します。私は新到一年目の臘八大接心の少し前に妙心寺の管長であった逸外老師の隠侍(老師の身の回りの世話をする役)となって京都に行きましたので、新到での臘八大接心は経験していません。でも、その後道場から寺に帰るまで毎年この時期には臘八大接心を行っていました。

正眼寺の冬は本当に寒く、廊下を雑巾がけをすると拭きながらその一方で凍っていくという有様でした。冷たいからといってお湯を使うと、霜焼けになったり、アカギレになります。冷たい水で雑巾をしぼるのですから、かじかんだ手では力が入りません。よくしぼらずに拭くと、雑巾の水が凍って滑り、カエルが車に轢かれたような格好で顔面を廊下にぶつけ、悲惨なこととなります。広い所を時間内に掃除をしなければならないのですから、何度も痛い思いをしました。

臘八大接心中は夜の八時まで窓を開けっぱなしです。しんしんと降る雪の時は静かで、坐禅をしていても気持ちよく坐れますが、風のある時は禅堂の中まで雪が吹き込んできます。坐っている衣に雪がついてもなかなか融けないのです。でも、「これくらいの寒さに負けていて、悟りを得ることなどできるか」と、更に奮起して坐禅に打ち込むのです。

四年目の臘八大接心の時、典座寮(てんぞりょう)の寮頭をしました。典座寮は食事の支度をする職で、通常は二人か三人で当番と非番に分かれてその仕事に当たります。寮の中で一番古い者を寮頭といい、下の者は寮子といいます。私が正眼寺にいた頃は雲水が四十人近くいました。当番は一人ですので、その食事の支度は大変でした。米を研ぐのも、汁の実を準備するのも、漬物を漬物小屋から出し支度するのも、みんな一人でします。漬物は沢庵漬ですので、重しを軽くすると空気中の水分を吸って、すっぱくなります。横着をして重しの石の数を減らすとすぐに味が変わりますので、手を抜くことができません。漬物の樽の大きな石を下ろして、タクアンを出し、また石を載せる作業は骨の折れる仕事でした。臘八大接心中は、どの寮も寮頭が一人で当番をし、寮子は禅堂に詰めます。寮頭は一週間のそれぞれの寮の仕事を一人で全てするのです。

臘八大接心中は信者さんからの供養がありますので、日常の献立よりもご馳走になります。ご馳走といっても肉や魚がつくわけではありません。何しろ、道場の中は全くの精進料理ですので、出汁に鰹節だって使いません。野菜ばかりの料理ですが、おかずがついたり、ご飯や汁の実がよくなります。それと、夜には身体が冷えますので、茶粥や甘酒がでます。それらを支度するのは典座の仕事ですから、通常よりも臘八大接心の留護の寮頭の仕事はずっと多いこととなります。

禅堂でひたすらに参禅弁道に励む雲水の修行が進むようにと気を配り、少しでも美味しい物を食べていただけるようにと、典座の留護の者は心を砕くのです。だからといって、老師への参禅を行なわなくても良いということではありません。臨済宗の修行は何といっても、老師への参禅が眼目なのですから、仕事が忙しいからといって参禅をさぼることは許されませんし、それをおろそかにすれば修行僧ではありません。少しの時間を見つけては一人で坐禅し、老師からいただいている公案(こうあん・公府の案牘といい、公の法則条文のこと。転じて、禅門では学人が分別情識を払って参究悟入するための問題のこと)の究明に力を注ぎ、老師への参禅をするのです。

臘八大接心は古参の者も新到の雲水も誰もが心血を注ぎ、己事究明に精を出します。眼の色が変わると言いますが、本当にみんなの眼の色が違ってきます。三、四日も過ぎますと、顔からは血の気が失せ、生きているのか死んでいるのか分からないという状態でも眼だけはギラギラしています。私が典座の留護のこのような状態の時のことです。臘八大接心中の献立は接心が始まる前に上役の方から指示があります。その日の斎座(昼ご飯)は、ワカメを炒って細かくしご飯にまぶすワカメ飯でした。粥座(朝ご飯)が終わり、片付けをして、ワカメの支度をし、ご飯も炊いて、火の始末を確かめ、「よし。準備万端整った。これで提唱後にすぐに大衆(だいしゅう・修行僧全員のこと)に斎座を出せるぞ」と、おもむろに老師の提唱に出頭しました。提唱が始まり、聞いている内に上の瞼と下の瞼が意思に反してそっと仲良くなりだしました。うとっとしたような気がしますが、それがどれくらいの時間だったかは定かではありません。はっと正気に戻り、「まてよ。今日はワカメ飯だったな。塩飯を炊いたかな?」と、さっき炊いたご飯のことが気になりました。ワカメ飯は塩を入れて炊かなければ美味しくありません。どうだったか思い出しても、塩飯を炊いた記憶はありませんでした。白的(はくてき・米だけで炊くご飯。道場の通常は麦飯なので、米だけのご飯はご馳走)を炊いてしまったのです。頭が真っ白になりました。それからは、老師の提唱はもう耳に入ってきません。「どうしよう。どうしたらよいか」と、血の気が失せる思いで、提唱の時間中、この失敗をどう克服するかを真剣に考えました。眠っている暇などありません。それこそ、いろいろ考えました。提唱が終る頃、一つの結論に達しました。それは後に知ったのですが、お寿司屋さんが酢飯を作る時、ご飯を切るようにして混ぜるということと同じでした。濃い塩の湯を作り、シャモジを浸して丁寧にご飯粒が潰れないように混ぜるのです。

提唱が終わり、急いで寮舎に戻り、すぐにとりかかりました。大きなかまどで炊いたご飯を飯器に移しながらその作業をしていると、同期に入門した泰っさんが、老師用のご飯を取りにきました。泰っさんは老師の隠侍(いんじ・老師の身の回りの世話をする役)として留護していました。泰っさんは以前、典座の役をしたことがありましたので、私がやっていることが不思議に思えたのでしょう。「何してるの。このお湯は何?」と、例の塩の湯に指を突っ込んで、ペロリ。「あっ! 分かった。白的を炊いたな」と、すぐに分かってしまいました。でも、こちらはそんなことに構っておれません。真冬でも汗が出るほどに一生懸命にご飯を切りました。泰っさんはワカメを混ぜ、老師の分のご飯を持って、「まぁ、頑張って」と言って戻っていきました。準備を整え、斎座の合図をし、禅堂の雲水が食堂(じきどう)に集まり、斎座が始まりました。冷や汗をかく思いで大衆の食事の様子を見ていると、別段何も問題がありそうな様子はありません。直日さん(じきじつ・禅堂内の指導的役割をする長)も粛々と食べています。何か問題があればすぐに罵声が飛んできますが、静かに食べています。内心ほっとしていると、泰っさんが老師の所から下がってきました。笑いをこらえながら、「宗っさん(じゅっさん・私の修行時代は琢宗という名でしたので、下の字の宗で通常は呼ばれます)。老師が、『今日のご飯は実に美味い。上手に炊けている』と誉めていたよ。宗っさんのさっきの姿を思い出して、可笑しくって、可笑しくって」と、必死に笑いをこらえています。臘八大接心中で、みんなが修行に神経をとがらしている時なので笑い声など立てる訳にいかず、必死にこらえているのです。それを聞いて、安堵したと同時に、老師が常々言われている「窮して変じ、変じて通ず」という語が身にしみました。修行は窮しなければ本当のものを見ることができない。窮して、窮して、とことん窮して工夫してこそ、そこに変じるところがある。その変じる体験が大切であるということです。窮すること、工夫することの大切さを身をもって体験できた有難い経験だったと、今でも忘れません。

話は変わりますが、過日、本山の宗務総長の選挙がありました。現総長の青木謙整師が当選しました。これからの任期三年間、また私に部長をせよとの厳命です。現在の財務部長はもう長いこと財務の職にありますので、宗議会でも長過ぎるとの声があがっています。恐らくこの任期で交代だと思います。財務部長を誰がやるのか、私がどの部長になるのか、今はまだ総長の胸の内、発表はありません。今、本山では宗門の規則改正に取り組んでいますので、部長が二人も交代する訳にはまいりません。次の任期も本山勤めをしなければならないと存じます。

今年、還暦を迎えましたが、「窮して変じ、変じて通ず」る処に向かって、更なる精進をしなければならないと思っています。皆様には、不在がちでご迷惑をおかけいたすことと存じますが、よろしくご寛恕のほどお願い申しあげます。


家庭教育に仏教を

最近、いじめによる子ども達の自殺が社会問題となっています。亡くなった子は勿論、家族の心痛は言葉では表せない苦痛であると思います。

私も中学時代、いじめにあったことがありました。そして、今思うと、その女の子にはいじめをされたと思われているだろうということをしたこともありました。自分では何の理由かも分からず、それまで仲の良かった友達のグループから無視されたり、つらい言葉を言われることは本当に苦痛であったことを思い出します。いじめをしたこともあるというのは、きっとそう思われているだろうということで、自分ではその時はいじめをしているとは思ってはいませんでした。ちょっとちょっかいをしたくらいの、全く軽い気持ちで行なったことが、その子にはとても苦痛だったようで、ある日ちょっかいを出した時、泣き出してしまいました。悪い事をしたと後悔しましたし、謝りもし、勿論それからはもうちょっかいを出すことは止めました。この頃のいじめの報道に接する時、きっと彼女は私にいじめられたと思い、そのことを思い出していることだと思います。決して憎しみや悪気でやったことではありません。軽はずみを本当に詫びています。

でも、何で、最近の子は自殺という最悪の方法を選んでしまうことが多いのでしょうか? 一つこれを直せば解決するというような単純な問題ではありません。いろいろな側面、例えば学校教育の問題、子ども達を取り巻く環境問題、大人社会の価値観の問題、家庭教育の問題などなど、総合的に有機的に考えていかなければなりません。今、テレビなどの報道で、学校のあり方、教師への責任追及が盛んに行なわれていますが、いじめは学校だけの問題ではありません。報道を見ていると、まるで学校だけが悪いような言い方で追求していますが、それこそ報道による学校いじめのように感じるのは、私だけではないと思います。

いろいろな側面から問題の解決をしなければならないことは重々承知の上で、この問題を家庭教育の問題として考えてみたいと思います。家庭教育の教育力の低下はよく言われています。「子どもは親の背中を見て育つ」と言われ、親の生き方・行いを見ながら子どもはそれに影響されて育つことは間違いありません。しかし、親の考えを子どもに伝えることも大切ですし、親子で人生の生き方を話し合うことも大切です。親子で話し合える家庭の雰囲気作りをおろそかにしてはいけないと思います。

現在、どれだけの家庭で、人生についてや生きるということなどについての話がなされているのでしょうか? 極めて少ないのが現実だと思います。子どもにはただ「勉強しなさい!」と勉強を押し付け、親はつまらないテレビを見て笑っているようなことでは、この日本の現状は決してよくなることはありません。今や、家庭教育を考え直し、先ず親の意識が変わらなくてはならない時に直面しています。「難しいことなど考えたくない。今が楽しければそれでいい」という考えが世の中を悪くしているということに気付かなければなりません。

世界の家庭教育の根幹は宗教性に基づくものがその大勢を占めています。我が国では、明治の廃仏毀釈、戦後の学校教育で宗教教育が行われなくなったことなどにより、仏教は古臭いもの、迷信と言って捨て去ってしまい、今では葬式をすることが務めであるかのように、仏教は形骸化しています。しかし、仏教には人生の指針となりうる素晴らしい教えがあります。今一度、家庭教育の指針として、仏教を見直してみることは大変意義のあることです。家庭での会話の中に是非、仏教の教えを取り入れていただきたいと思います。今の世の中は不透明で先が見えにくいとよく言われます。先が見えにくいために、不安が募り、不安定になるというのですが、果たしてそうなのでしょうか? 本末転倒した言い方に思います。

そこで、私が修行をさせていただいた禅宗 (臨済宗)の立場で、仏教の教えのいくつかを参考までに述べてみたいと思います。

  • 仏教では「一切衆生悉有仏性」と説かれます。衆生は全ての生存するものの意で、誰でも彼でも、犬でも猫でも、生あるものはことごとく、仏性(仏としての本性)を有しているということです。特別な人が仏になるのではなく、誰でも、その仏の心に目覚めれば即ち仏なのです。この故に、仏教は殺生を戒め、和合を説き、平和主義なのです。本山東福寺の福島慶道管長猊下は、仏性を完成された人格と説かれています。
  • 仏教は自己の目覚めを求める教えです。祈願することが仏教の本義ではありません。むしろ、自分に都合のよい願い事や我欲を満たす願い事などは、願っても仏様には聞いてもらえません。聞いてもらえるのは、他人の幸せや世界の平和、そして、自分の精進努力に関わることを願うことです。仏様にお参りする時は、願い事をするならこの二つにし、報恩感謝の気持ちで合掌をして欲しいものです。
  • 人生は「苦」である。この苦というのは、思い通りにならないということです。思い通りにならないのが人生であるということならば、努力することは意味がないというのは間違っています。苦をしっかりと受け止め、苦より解脱しなければなりません。解脱した状態を悟りといいます。悟りへ向かって精進することを修行といいます。
  • 仏教の基本理念は「空」です。般若心経・大般若経・金剛般若波羅蜜多経などの般若経典はこの空を説いたお経です。この世のものは総て事物を構成する五つの要素(色・受・想・行・識)が仮に集まったもので、永遠の存在としての実体はなく、また、この五つの構成要素の一つ一つにも実体はなく、現象として生滅変化する仮の存在にすぎないということを説いたのが空です。禅ではこの空を「無」と表現します。

【閑話休題】

「空」のことを書きながら、急に過日本山であった研修会の時のことを思い出しました。二十名ほどの方が坐禅をしたり、法話を聞いたりしながら研修を受けました。禅寺での研修ですから、当然のことながら「無」「無心」の大切さを説き、坐禅でその実践を行ったわけです。研修会に参加した方から、国宝の三門の楼上を是非観たいという希望があり、禅堂での坐禅の後、三門に上って拝観していただきました。下りて、参加者から三門の意味を問われ、法務部長が「空」「無相(むそう・一切の執着を離れた境地)」「無作(むさ・分別造作に陥らず自然なること)」の三解脱の意味を答え、「ところで、この三門には入口が三つありますが、どれが空門でしょうか? 無相門、無作門はどれでしょうか?」と質問しました。すると、参加者から、「恐らく、空門は真ん中で、左右が無相と無作」「右が無相で、左が無作。いや、逆かな」などの答え。「答えは、どれでもいいんです。禅の悟りへの門なのですから、とらわれることは必要ないのです。よろしかったらどうぞ悟りへの門をお通りください」と、法務部長。みんなは納得顔をして門を通ろうとしました。たまたまその時は門の内側で説明をしていましたので、そのまま通ると出てしまいます。通ろうとしたその時、「こちらが内ですよ。悟りの世界ですよ。こっちから通ると、俗世界に行ってしまいますよ」と言うと、みんなはあたふたと戻りぐるりと廻って、また門を通りました。無執着を再三説いたのですから、誰か一人ぐらい、「入るも出るもありませんよ。とらわれてはいけません」と言われれば面白かったのですが、・・・ 残念なことにそれはありませんでした。

話を戻します。

  • 執着心を取るということによって目覚め・悟りを得ることができます。自分さえよければ他人はどうなってもよいという自分勝手な我欲が自らの仏性をくらまし、とらわれの心を起こすのです。地位や名誉、金銭をはじめとして、何事にもそれにとらわれない、執着しないことが大切です。
  • 執着しない心を自由な心と言います。ですから、自由の本来の意味は、我欲や自分勝手な我を離れていなくてはなりません。今の日本の自由は、自分勝手が自由だと勘違いをしています。
  • 心には貪瞋癡の三毒があります。貪り・怒り・愚かさです。貪は、もっと欲しいもっと欲しいという欲です。瞋は怒りの心です。癡は愚痴で、ものの道理に暗く明らかでないことで、懈怠の心とも言われます。精進努力しようとする心を鈍らせる心です。この三毒を取り除くことにより、本来の自己(仏性)が輝きだします。
  • 禅では、執着心を取り除き、三毒を消すためには「なりきる」ことが大切であるといいます。即今、この場で、自分がやらなければならないことと一つになりきる。自ら主体的に、好き嫌いを言わず、損得を離れてなりきっていくのです。仕事をする時は仕事と一つ、勉強する時は勉強と一つ、掃除をする時は掃除と一つ、今のそのことになりきるのです。「よく学び、よく遊べ」というではありませんか。

以上、禅の教えのいくつかを記しました。禅はとらわれ、執着することを戒めています。至道無難禅師は、「至道無難唯嫌揀擇(しいどうぶなんゆいけんけんじゃく)」と言われ、悟りへの道は難しいことではなく、ただ揀擇(えり好み)をやめなさいと言われています。好き嫌い、損得などの価値判断の物差しを捨てなさいということです。背が高いの低いの、勉強ができるのできないの、財産が多いの少ないの等、みな揀擇です。その物差しで計るが故に、先が見えにくいのです。大人が揀擇の物差しを捨てないかぎり、いじめも戦争もなくなることはありません。大切なこの一生、死んでから仏になるのではなく、生きている内に仏になることが大切なのです。自己の目覚めに向かって、そして世の中の平和に向かって、揀擇する心を先ず自分から捨ててみようではありませんか。


まず自分が精進しよう

最近の日本は一体全体どうなっているのでしょうか。耐震強度の偽装事件、ライブドア事件、そして今度は防衛施設庁の談合事件。本当に検察庁関係の方々はお忙しいことと思います。坊さんと警察は暇な方が世の中平和なのですが、どうもそのようではありません。

これらの事件に共通することは、金銭に対する執着です。お金はないよりもあった方がいいとは思いますが、お金に執着することは慎まなければなりません。財物への執着は、六道の内の餓鬼道です。餓鬼道は、足ることを知らない無知より生じます。漬物の「たくわん」を考案したといわれる沢庵禅師は、徳川将軍の剣術師範・柳生宗矩に書き与えた「不動智神明録」で、無心の大切さを説いています。「無心の心と申すは、固まり定まりたる事なく、分別も思案も何も無き時の心、総身にのびひろごりて、全体に行き渡る心を無心と申す也。どっこにも置かぬ心なり。石か木かのようにてはなし。留まる所なきを無心と申す也」と言い、留まる心、執着の心を戒めています。

お金さえあれば何でもできるという拝金主義者の周りには拝金主義の人しか集まりません。お金に執着した拝金主義の人はお金が大事なのですから、如何に自分が儲けるかしか考えていませんので、隙さえあれば他人の足をすくおうと考えています。油断も隙もない毎日、それで幸せなのでしょうか。

徳川家第三代将軍家光と沢庵禅師との間に次のような逸話があります。
ある日、家光が沢庵に、「余は近頃何を食べても味がない。何か口に合う美味はないか」と聞いたところ、沢庵は、「それはいと易きこと。明日の早朝よりわが庵へお越しください」と答えました。大喜びの家光に沢庵は、沢庵が主人で、家光が客ですので、我がままは言わないこと、そして、何事があっても中座しないことを約束させました。そして翌日、家光は小姓を召し連れ、沢庵の庵を訪ねました。時は寒の真っ最中、夜明け頃より降り出した雪で辺りは一面の銀世界。迎えに出た沢庵と雪景色の素晴らしさを楽しんだ家光は茶室に通されました。「しばしお待ちを」と、沢庵は引き下がりました。家光は雪景色を見ながら、「何をご馳走してくれるであろうか」と、待ちこがれていました。でも、昼になっても、一向に沢庵は出てきません。名君と言われる家光もさすがに癪に障ってきましたが、昨日の沢庵との約束があります。小姓に台所の様子を見に行かせても、何やらゴトゴトと音のするばかりとの返事です。

中座して帰ってしまう訳にいかず、じっと空腹を堪えているより他ありません。腹が空いて目が回りそうになった頃、やっと沢庵が襖を開け、「甚だ遅くなり恐縮に存じます。やっと沢庵手製の料理ができあがりましたので、ご賞味あれ」と、お膳を差し出しました。膳の上にはお椀と皿に二切れの黄色い物だけです。この黄色い物は何だろうと思いつつ、椀を開けてみると、お茶漬けです。それでも家光は腹が減って仕方ないので、一気に食べ始めました。この黄色い物は少し塩気があって、実にお茶漬けに良く合う。家光は何度もお替りをして、「この黄色い物は一体何か」と訊ねました。「大根の糠漬けです」と、沢庵。

家光はすっかり感心しました。この時、沢庵は威儀を正し、「上様は征夷大将軍の御位で、人間の富貴この上も無く、結構なる物ばかり食されています。そして口が贅沢になり、うまみがなくなっています。故に、愚僧が今日ご招待申しあげ、空腹を待ち、粗飯を差し上げたのですが、それにお怒りになられるのではなく、美味との御意。空腹の時ほど、粗食でも味の良きことはございませぬ」と、家光の奢侈をそれとなく戒められました。家光はこれを聞き、「和尚、今日の馳走は身にしみて、まことに結構」と殊勝な態度で、「権現様(家康)は千軍万馬の間を往来され、一日に二度の食をもされずにおられたことがあったそうだ。余はその功労で天下の将軍となった。余が贅沢をしては済まぬことである」と答え、「しかし、和尚、空腹の時に食事をするのは美味いが、満腹の後での小言は甚だ美味くないものじゃ」と大笑いをされたとのこと。

後年、大根の糠漬けを沢庵漬というようになったのは、このことによっているとのことです。沢庵禅師もすごいですが、さすがに名君と言われるだけあって将軍家光も素晴らしいではありませんか。金銭に執着して、金に任せての贅沢に対する大きな戒めであると同時に、幸せ感は意外と身近なところにあることを教えてくれています。上に立つ者はとかくその権力に溺れてしまいがちで、他人の忠告を素直に受け入れなくなるものです。上に立つ者は、家光のこのような姿勢が大事だと思いませんか。どこかの国の首相も見習って欲しいものです。 もう一つ、これら最近の事件で考えさせられるのは、責任逃れです。過去の多くの事件でもそうですが、「記憶にございません」とか、「別の問題」とか言って、責任の転嫁に終始している姿は何とも醜いものです。幼稚園の子ども達に嘘を言ってはいけないと教えていますが、大人が、まして国会議員や経営の首脳といわれる人々がこのようでは、日本の国がよくなるはずはありません。

そういえば、これも沢庵禅師の逸話だったと思いますが、・・・確信はありません。でも、それが沢庵禅師でも一休禅師でもかまいません。話の内容が大切ですから、ここでは沢庵禅師ということとしておきます。

これも江戸時代初めのことです。
しんしんと雪の降っている中を、一人の武士が沢庵禅師を訪ねました。その武士は関が原の合戦にも出陣し、相当の手柄を立てていました。それが誉れではありましたが、戦で手柄を立てるということは相手の国の武士を殺すということですので、多くの人を殺したということへの罪悪感もありました。そこで、沢庵禅師を訪ね、「自分が犯した人殺しは、主君の命によるものです。戦がそうさせたのです。敵を殺さなければ、自分が殺されてしまいます。私に多くの人を殺した責があるのでしょうか」と、訊ねました。

恐らく、この武士は、沢庵禅師に、「それは戦の所為であるから、お前さんには責はない」と言って欲しかったに違いありません。そして、自分のそのことに対する罪悪感から逃れたいと思っていたと思います。しかし、沢庵の答えは、その武士の思惑とは異なっていました。武士はその答えに満足せず、何としても責は主君にあり、戦にあるということを認めさせようと必死に訴えました。すると、沢庵はやおら、「汝、庭に出て、あの松の木の枝を揺すってみよ」と命じました。その武士は不審な顔をして庭に下り、命ぜられるままに雪の積もった松の枝を揺すりました。どうなりますか? 当然ですよね。 その武士の頭に枝に積もった雪がバッサリ。
「どうだ、冷たいか?」と、沢庵。この時、この武士は、ハッと気が付いたとのことです。

そうなのです。いくら他人から命ぜられたといえども、自分が行ったことの結果は自分に帰ってくるのです。「私は誰々に言われたからやった」と言っても、実際に行ったのは自分なのですから、その責は自分に帰ってきます。因果を晦ますことはできないのです。責任逃れをしても、駄目なのです。

でも、現在の我が国では、拝金主義や責任逃れが横行しています。時代の趨勢だから仕方ないと、皆があきらめてしまったらどうなるのでしょうか。ますます悪くなるに違いありません。「自分が死んでしまった後の世の中のことなんて、自分には関係ない」などという身勝手な考え方や、「自分さえよければ、他人はどうなってもかまわない」という利己的な考え方がその土壌を作っています。その土壌を構成しているのは、我々一人一人です。身勝手な、利己的な考え方を、我々一人一人が捨てる努力をする必要があります。

「自分一人が身勝手な、利己的な考えを捨てても、たった一人のこと。社会全体からしたら大した力にならない」と言われる方がみえますが、それは違うと思います。本当にそれらを捨て、執着の心を捨て去り、それに徹すれば、その人はお金や地位などとは無関係の大いなる悦びを味わうことができ、自由の境涯に活きることができます。先ず、自分が、今生きているこの場で、精進努力することが大切です。仏教はここを説いているのです。

大切な子ども達の、これからの世界が良くなるか悪くなるかは、今の大人達の責任です。今回のこれらの事件を他人事とせず、真剣に一人一人が自分のこととして考え、自己を見直す契機としたいものです。


ありがたかったこと

今年の暦も残り少なくなってきました。何か年々、一年が短く感じるようになりました。特に今年は、管長猊下が六月に入院されたことも影響し、また、十月には私が修行した正眼寺で六五〇年の遠諱法要や報恩大接心、授戒会があり、それに荷担をしましたので、忙しさが倍増し、この半年間は目まぐるしく過ぎ去りました。お年忌法要を申し込まれても、ご希望にそえないことが多々あり、申し訳なく思っています。

正眼寺は岐阜の美濃加茂市伊深町にあり、山の中の寺なので、交通の便が悪く、どうしても車で行き来をしなければなりません。正眼寺での行事の間に本山の行事があったり、本山の仕事に引き続いて正眼寺の評議に行かなければならなかったり、豊橋、京都、美濃加茂の三角形を飛び回っていました。一日の内に、正眼寺から京都に行き、そして豊橋に帰り、また正眼寺に戻るということもあり、車で全て移動していたら身体を壊してしまいそうです。新幹線の中でどうしたらよいかと思案していましたら、岐阜羽島駅で、「一日六百円」「一日五百円」という駐車場の看板が見えました。安いではありませんか。

岐阜羽島から京都の本山までは新幹線ですと一時間ほど、車ですと二時間ほどかかります。そこの往復を新幹線にすれば、時間的にも短く、身体も楽です。そこで、岐阜羽島と京都との新幹線の回数券を買いました。それで随分と助かりました。因みに、岐阜羽島駅の周辺の駐車場は、安い所ですと一日四百円の所もあります。料金は一日は一日の計算で、時間制ではありませんでした。

何はともあれ、この大変な時期を乗り越えることができました。乗り越えることができましたのは、ひとえに檀信徒の皆様、茶道関係の諸先生方のご理解とご協力、勿論、身内の者の支援があればこそと、本当に有り難く、感謝いたしています。

ここから本題

さて、今年、有難いことがもう一つありました。それは、「更に参ぜよ三十年」という語がありますが、全くその通りだと感じさせられたことです。
というのは、臨済宗と黄檗宗はともに禅宗といわれる宗派です(禅宗にはもう一つ曹洞宗が日本には伝わってきています)が、臨済宗と黄檗宗は非常に縁の深い宗派ですので、臨済宗黄檗宗連合各派合議所(臨黄合議所)を設立し、臨済宗各派と黄檗宗の連携を図っています。その組織の中に、各本山の教学部長で構成される教学部長会があります。

私が東福寺派の教学部長に就任した頃、今後の禅門発展のためには若い僧侶にもっと力をつけてもらうことが必要であるという観点から、臨黄全体での教化研究会を発足させようという話が教学部長会の中でされていました。勿論、各本山では、それぞれの本山主催の研究会や研修会は行われていましたが、臨黄全体のものはありませんでした。それぞれの本山での研究会ではどうしても内輪のこととなり、内容を深めるには難があります。大きな視野に立つには大きな舞台が必要であるということで、教学部長会でいろいろと案を練り、やっと今年、第一回目の教化研究会を開催することができました。多くの研修会が講師の話を拝聴するだけで、お説ごもっともだけで済んでしまい、その場が過ぎれば忘れてしまいがちです。。そこで、この研究会は講演は基調講演だけとして、それを基に、それぞれが皆、専門道場で修業してきた者ばかりなのだから、意見を出し合い、自己研鑽、己事究明の場とするという趣旨で行われました。

修行の中身について話し合う場はこれまでありませんでしたから、かなりいろいろな意見が出て、見方の違いや、これまで気が付かなかったことに気付かせてもらったりと、参加者からはなかなか好評でした。

基調講演は臨済宗の宗門の大学・花園大学の前学長の西村惠信先生にしていただきました。西村惠信先生も僧侶ですので、常々感じていることを率直に話されました。私共教学部長会でこの研究会をやろうという趣旨は先ほど述べた通りですので、その内容はねらいによく合致していました。 先ず、在家出身の先生は、小僧生活、師匠の思い出、修行時代、そして学究生活を通じての禅思想の構築と、自身のこれまでを振り返り、「仏教とは何か」を説かれ、禅宗坊主としてまだまだ未熟であること、先生の言葉を借りますと、「恥を識る」ことを分からさせてもらったことが自分の今の宗教体験であると言っても過言でないと断言されました。私は、「なるほど、もっとも」「うん、うん。向上心がなくなったら、それで終わり」などと、合点しながら聞いていました。白隠禅師をはじめ中国・日本の禅僧の話をまじえ、禅の素晴らしさ、修行の大切さ、己事究明がこれからの世界にとって必要なこと等、縷々話されました。愚鈍な私は「その通り、その通り」と、他人事のような感覚で聞き入っていました。自分は教学部長であり主催者側、今日の研究会に参加した若い僧侶たちよ、これを聞いて奮励努力せよと言わんばかりの気持ちでした。

時間が半ばを過ぎた頃、「だいたい、僧侶は勉強していない」と、厳として一言。恥ずかしながら、まだこの時は、「その通り、その通り」の立場でした。その後、「年忌法要をして、般若心経を読んだり、大悲呪を読んで、何万円というお布施をいただいているが、心経や大悲呪の意味を知っていますか? この頃は『傍訳禅宗経典』というのが四季社から出ていて、随分とニーズがあるらしく、よく売れているそうです。在家の人でも買って読んでいるのですよ。・・・プロ野球の選手がルールを知らずにマウンドに立てますか? 立てはしませんよ。しかし、君らは何も知らないで床柱を背にして、立派な座布団に坐っているじゃないか。誰よりも自分自身にとって、これほど屈辱的なことがありますか? まだ信用されて救われているが、救われないのは君たちじゃないか。これほど誰が聞いても許されないことが堂々と行われている。これでもって禅宗坊主を語っているという、この欺瞞はどうですか?」(基調講演録より)と、切なる声で語られました。吃驚しました。本当に驚きました。鈍な私でも、これには参りました。

お経の読み方

私の学生時代、般若心経の「ギャーテイ ギャーテイ・・・」や大悲呪、佛頂尊勝陀羅尼など、真言とか陀羅尼といわれるお経は、釈尊の生の言葉で秘密の故に訳してはいけないと言われ、西遊記で有名な三蔵法師玄奘などの翻訳僧はこの類のお経は音を写しただけであると教えられました。

また、専門道場では、老師から耳にタコができるほど、「お経には二つの読み方がある。一つはお経の意味を解して実践し、向上の糧とするという読み方。もう一つは、お経になりきるという読み方だ」と教えられました。禅の修行は『なりきること』が眼目です。というのは、『菩提和讃』の中で、「衆生おのおの佛性を 受けて生まれしものなれば 一念不生に至るとき たちまち仏性現前し 老若男女もろともに その身がすなわち佛なり」と説かれていますように、自己の内の佛性に目覚めるためには一念不生にならなければなりません。『我』を捨て、ただひたすらになりきってみる経験がなくては、一念不生の境涯は分かりません。ですから、道場では、『なりきる』ことを大切にします。

また、仏教の基本的な教えを説いている般若経典は、『空』の教えを説いていますが、その空を理解するためには、なりきって、空の体験をしなければなりません。ですから、よく考えてみれば、二つの読み方は表裏一体の関係にあるわけで、決して二つが別々のことではないのです。口先だけのお経や念仏は何の功徳もないということなのです。

スヴァーハー

以上の理由で、陀羅尼の意味は知らなくても、それでよしとしていました。でも、これはいけない。さっそく勉強しなくて・・と思い、花園大学内の禅文化研究所に問い合わせました。紹介されたのは『臨済宗の陀羅尼』(木村俊彦・竹中智泰共著)という本でした。

臨済宗の陀羅尼という書名の通り、臨済宗で通常使われる陀羅尼経が原典のサンスクリット語のお経に基づいて翻訳されています。それを読みながら、顕教である禅宗が何故、密教の真言・陀羅尼の類のお経を読むのだろうかと疑問に感じました。現在の中国の臨済宗のお寺で読まれているお経にも、勿論、その発音は私たちが読んでいる音とは違いますが、同じ陀羅尼のお経が読まれています。中国に渡って修行された栄西禅師、聖一国師などが中国のお寺で読まれていたお経を持ち帰ってきたのですから、それは当然のことといえば、当然のことなのですが、何故、密教のお経を読むのでしょうか?

いろいろと考えてみますと、今私たちは、禅宗・浄土宗などの顕教と天台宗・真言宗などの密教に仏教を分けています。その立場からすると禅宗で密教のお経を読むことが不思議に感じられますが、臨済宗を初めに伝えた栄西禅師にしても、東福寺の開山さま聖一国師も顕密併修であったことを考えると、その当時の中国ではそれほど顕教だの密教だのと分けていたわけではないのかもしれません。密教がインドで起こったのは五世紀頃のことですから、それが中国に渡り、すでにあった各寺に新しい教えとして広まっていき、顕密併修の状態で行われていたということは十分考えられることです。現在の顕教と密教を分けている立場で考えると違和感があるのだと思われますが、このことについてはこれからなお勉強しなくてはと思っています。

この本を読んで初めて知ったことがあります。それは、般若心経の真言の最後の言葉の『薩婆訶』(ソワカ)と、大悲円満無礙神呪(大悲呪)に度々出てくる『娑婆訶』(ソモコ)とが同じ言葉であったということです。元の言葉は『スヴァハー』で、「幸あれ」とか「万歳」というような意味だそうです。参考のために、『臨済宗の陀羅尼』の大悲呪の翻訳を見てください。

いかがですか。大悲呪の意味はこのようでした。後ろの方の「猪の顔を持ち、またライオンの顔を持つもの」だとか「大きなこん棒を携えしもの」のように、ちょっと意味不明な部分もありますが、どこにも『金儲けさせてくれ』だとか、『地位・名誉を与えてくれ』というような我欲を満たすことを願う言葉はありません。般若心経の「ギャーテイ ギャーテイ・・・」の意味は、「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」(中村元・紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』)です。これにしても秘密にしなければならない理由が分かりません。インドの人々は自分たちの言語なのですから、唱えていて意味が分かるはずです。それを中国語に翻訳する時に何故に、秘密の言葉として音を写し、意味が分からないようにしてしまったのでしょうか? 分かりません。もっと言うならば、大悲呪の中の貪り・怒り・愚痴妄想の害毒の滅除の部分や、心経の陀羅尼の内容は、修行して悟りに向かおうということを説いているのですから、秘密にするより、意味が分かるようにして唱えた方が意義があると思いますが、如何でしょうか。それはそれとして、この「スヴァーハー」は「幸あれ」とか「万歳」というような意味であると訳されていますが、どうも、「幸あれ」という言葉より、「有難い」「素晴らしい」という言葉の方がよく合う気がします。「スヴァーハー」「素晴らしい」・・よく似ているではありませんか。

子育てにおいて、子どもを叱るより誉めることが大切だと言われます。誉めることは、子育ての場合だけでなく、大人の世界でも大切なことです。誉めるためには、相手の良い所を見付けなければなりません。その努力をすること、そしてそのような眼を養うことは、自分の成長にも役立ちます。 「スヴァーハー」は大切な言葉だったのです。西村惠信先生の厳しい言葉のお蔭で、それを知ることができました。西村惠信先生に「スヴァーハー」。この拙い文を最後まで読んでくださった貴方に「スヴァーハー」。そして、人生の修行に励んでいる方に「スヴァーハー」。この尊く貴重な人生に「スヴァーハー」。この尊く貴重な人生を与えてくださったご先祖様に「スヴァーハー」。本当に不思議な大自然・大宇宙に「スヴァーハー」。「スヴァーハー」。「スヴァーハー」。


長者長法身

もうぼちぼち「萬年山だより」を作らないと、春のお彼岸に間に合わなくなってしまいます。気はあせるのですが、どうも調子が悪い。身体がだるいし、鼻が詰って仕方ない。汚い話で恐縮ですが、鼻をかむとねっとりとした黄色っぽい鼻汁。鼻ばかりかんでいるので、鼻の下が痛くなってきました。どうも風邪を引いてしまったようです。風邪を引いたのは何年ぶりのことでしょうか。調子が悪いなと思ったら薬を飲んで一晩ゆっくりと寝れば、これまでは大抵、明くる朝は気分爽快となっていましたが、どうも今回は違います。 本山に行って、宗務本院の庶務部長さんが筆を洗って拭くために置いてあるティッシュペーパーで鼻をかんでいると、他の部長さんや職員の人たちがどうしたのか聞いてきました。前回、本山に来た時寒かったから、どうもその時風邪を引いたようだと言うと、「今年は杉や桧の花粉が例年の二十倍とも三十倍とも言われているから、きっと花粉症に違いない」「花粉症になると、毎年この時期になると大変ですよ」「テレビで花粉の跳び散る映像を見ただけでムズムズしてきますよ」と、みんなで私のことを花粉症にしたい様子。「そんなことはない。昔、修行していた正眼寺は山の中で、花粉の飛ぶ時は廊下が花粉で黄色くなる程だった。そんな中にいても平気だったのだから」と言うと、「花粉症は突然なるのよ」と、すでに花粉症の事務の人。花粉症にせよ、風邪にせよ、体力には自信があったのですが、どうも今回は具合が悪い。

正眼寺の臘八大接心

そういえば、ついこの間、正眼寺では臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)が終わったばかりです。臘八大接心とは、お釈迦さまが臘月(十二月)八日に悟りを開かれた故事に学び、その恩徳に報いるため行われる接心です。接心は年に六回、道場によっては七回行われますが、臘八大接心はその中で一番厳しい修行の期間で、多くの道場では十二月一日より十二月八日の朝まで行われます。接心は心を摂(おさ)めて散乱させず、ひたすら己事究明、悟りに向かって精進努力することですので、この期間中は坐禅三昧で、托鉢や作務は行いません。もっぱら老師との参禅弁道に励むのです。

正眼寺では、何時の頃からかは知りませんが、十二月ではまだ暖か過ぎるといって、一月十五日から二十二日の朝までをその期間としていました。大寒中の大接心ですから、本当に厳しいものでした。この大接心中は一週間を一日として坐り込むというので、布団を取り上げられ、横になって眠ることはできません。禅堂の障子は日中から夜の八時までは開けっ放しで、風にのって吹き込んできた雪が衣に付いても融けないのです。寒いからといって厚着をしている訳ではありません。雲水(修行者)の着ている着物は、シャツに襦袢、木綿の霜降りの着物に木綿の衣で、毛の物は着ていません。一週間を一日としてというのですから、勿論、風呂にも入りませんし、剃髪も髭剃りもしません。大接心に入って四、五日もすると顔からは血の気が失せ、眼だけがギラギラとした状態で、異様な雰囲気です。最初の臘八大接心の時は、このまま死んでしまうのではないかと思いました。でも、道場にこの後十年ほどいたのですから、不思議なものです。その間、毎年毎年、臘八大接心をこの時期にやっていました。

振り返ってみると、初めの三年ほどは「やらさせられている」修行でした。私の場合、道場に行ったのは僧侶となる資格を取り敢えず得ておこうということでした。中には、修行をしようという強い意志を持って初めから入門される方もみえますが、私はそれほどの願心があって修行に行った訳ではありません。資格を取ろうという程度でしたので、どうしても「やらさせられている」という意識があったと思います。「やらさせられている」という意識では、本当の修行ではありません。自らが主体となって、初めて修行になります。どんな仕事でも恐らく同じだと思いますが、「石の上にも三年」とはよく言ったもので、鈍な私にでも、三年もすると修行の方向が見えてきて、『やらなければならない』『やってみよう』という意識に変わってきました。修行でも何でも、自らの変革が先ず第一に大切なことだと思います。

軍隊と修行道場の違い

「昔、軍隊でも、上になったら楽なもんだった。そんなことを言うのは、上になったから、楽になってのことだろう」という声が聞こえてきそうです。無論、私は軍隊生活の経験はありませんが、軍隊と禅の道場とは、上の者の言うことは絶対的に下の者は服従するというシステムは似ていますが、中身は随分と違っていると思います。軍隊と禅の道場の違いは、例えば、托鉢の仕方をみてみればよく分かると思います。托鉢には連鉢(れんぱつ)と軒鉢(けんぱつ)があります。連鉢は京都のような街中で行います。何人かで十㍍ほどの間隔をあけて連なって「ほう~。ほう~」と声を掛けて行う托鉢です。正眼寺のような田舎では、道を「ほう~。ほう~」と声を掛けて歩いても、田舎の家は広いし、道路から離れていますので、托鉢になりません。ですから、一軒一軒の軒先に立って声を掛けます。これを軒鉢といいます。

正眼寺での托鉢は全て軒鉢で、概ね三、四人の組で出かけます。無駄を省くために、軒鉢は托鉢区域の遠い方、近い方、人数によっては中間の地域と分かれて行います。近い方を托鉢するのは、例えば三人の内の上の人、中堅の人、新参の人、誰だと思いますか? 軍隊なら当然、上の人だと思います。しかし、道場では違います。上の者が一番遠くへ行って、托鉢をしながら帰ってきます。新参の者は一番近くから托鉢を始めます。正眼寺の托鉢は五里四方といわれ、片道二十㎞の範囲ですので、遠い所は犬山までも行きます。全て歩きです。上の者はおよそ五十㎞も歩かなければなりません。上の者ほど多く歩き、大変なのです。

それは何故かというと、修行の眼目は、寒さに耐えることや、坐禅で足の痛さをこらえることではなく、先程も述べましたように己事究明にあるからです。つまり、老師との参禅(問答)や坐禅などを通じ、自己本来の面目を徹見し、自に目覚めることが修行の一番大事なことですので、托鉢や作務などの大変なところは古参の者がやり、新参の者が老師との参禅に集中できるようにという心遣いがそこにあるからです。老師からもらっている最初の公案(簡単に言えば、参禅の問題)が透過しない間は無眼子(むがんす)と呼ばれ、一人前の修行者として見てくれません。せめて一番初めの公案だけでも透過するようにと、上の者は下の者への心配りをするのです。

このこと一つを考えてみただけでも、軍隊と道場とは大きな違いがあることをお分かりいただけると思いますが、その違いは、禅の道場は修行を中心に考えているところにあります。上になればなるだけ、上の者は上の者としての修行があり、決して上になったからといって楽になる訳ではありません。

分に応じた修行

修行について、仏典にでているお釈迦さまのこんな話を思い出しました。
お釈迦さまに、ウパリというお弟子がみえました。お釈迦さまと同じ釈迦族出身で、理髪を生業とする下層階級の出身でしたが、お釈迦さまの説法を聞き、感銘を受け、出家しました。お釈迦さまの下で多くの修行者と一緒に修行に励んでいましたが、なかなか悟りを得ることができませんでした。一人山奥に入り修行して悟りを得ている修行者を見て、自分も山深き所で一人静かに修行すれば、きっと深い瞑想に入ることができ、悟ることができるに違いないと、ウパリは考えました。早速、お釈迦さまの所に行き、自分の思いを伝え、一人での修行を願い出ました。お釈迦さまはそれを許しませんでした。ウパリは何度も願い出ましたが、お釈迦さまは頑として許されませんでした。他の修行者が願い出ればそれを許すのを見て、ウパリは不満に思い、意を決して、その訳をお釈迦様に聞きました。すると、お釈迦さまは次のような例え話をされました。
『清い水を満々とたたえた池があった。そこへ象がやって来て、水浴びを始めた。炎暑の下、象はとても気持よさそうであった。暑さに耐えかねていた兎がそれをとてもうらやましく思いながら見ていた。象が去った後、兎が池に飛び込んだらどうなるであろうか? きっと、兎はおぼれてしまうに違いない』

仏典には多くの例え話が出ています。お釈迦さまの説法は応病与薬といわれ、その人その人に合わせた教えを説かれています。一人で静かに修行するに適した者、大衆とともに修行するのに適した者、人それぞれ適性があります。それをお釈迦さまはウパリに説かれたのです。ウパリはその教えを守り、持律第一と呼ばれる十大弟子の一人となりました。
「長者長法身、短者短法身」(長者は長法身、短者は短法身)という禅語があります。背の高い人は高い人なりの悟りがあり、背の低い人は低い人なりの悟りがあるということです。(因みに、この語は、背の高低という差別があっても、それぞれが法身で、それがそのまま妙相であるという意にも使われます) 背の高い人がよいのでもなく、背の低い人がダメだということでもありません。お金を持っている人、持っていない人。頭のよい人、そうではない人。そのようなこととは関係なく、人それぞれ、その分に応じた修行があり、また悟りがあるのです。

終わりに

話が随分とそれてしまいました。風邪の話をしていたのです。修行時代からこれまで、否、子どもの頃からず~っと、風邪などあまり引いたことはありませんでした。修行時代はそれこそ一度も引いたことはありません。道場から帰ってからもう二十五年ほどになりますが、風邪を引いたのは二、三度くらい。それも、小児用のシロップの風邪薬を飲んで寝れば一晩で治るくらいの風邪でした。年をとってきて体力が落ちてきたということでしょうか。それとも、気のゆるみがあるということでしょうか。本山に行ったり来たりで疲れているのでしょうか。でも、いずれにしても、「馬鹿は風邪を引かない」といいますから、幸いなことに馬鹿ではなかったようです。

これくらい書けばどうにか『萬年山だより』の格好がつくと思います。もうこれぐらいにして、早く薬を飲んで寝ることにします。え? 薬って、百薬の長と言われる薬だろうって?違いますよ。小児用のシロップの風邪薬です。
皆様も風邪を引かれませんように、充分ご注意ください。では、おやすみなさい。


すこやかな心を育てよう

京都の本山東福寺の教学部長を拝命してより、はや一年半が経ちました。夏休みや春休みなどの時期、新幹線の中はとても賑やかになります。子ども達が多くなるからです。通路を走ったり、大きな声でワイワイ騒いだり、この夏休みに京都に行った時も同様でした。子どもが一つのことに集中し静かにしていることができる時間よりも列車に乗っている時間の方が長く、飽きてしまうのは仕方ないことです。でも、仕方ないからと言って何の工夫もしないのはどうなんでしょうか? 子どもが通路を走り回っていても無関心な親、そんな親に限って、子どもを放りっぱなしにしておきながら、時々、「静かにしなさい」と、子どもを叱り飛ばしています。子どもはその時は静かにしますが、すぐにまた騒ぎ始めます。

また、駅などで高校生や若い男女が通路に坐りこんでいる姿をよく見かけます。男の子も女の子もあぐらをかいてドテッと坐っている姿は何とも退廃的な感じがして、目をそらしたくなる光景です。

それらを見ながら思うことは、日本は経済的には発展しましたが、精神面、「こころ」の世界では後進国に成り下がってしまったということです。第二次世界大戦の敗戦後、我が国は経済を最優先してしゃにむに頑張ってきました。その結果、世界有数の経済大国となりましたが、人としての「こころ」を置き去りにしてしまいました。経済的な豊かさによってこそ幸せになれると思い込み、「こころ」の豊かさの追求をないがしろにしてきました。世界の大国というのにはあまりにも片手落ちではないでしょうか。今、経済のバブルが崩壊し、世の中は不透明な時代だといわれています。先が見えないというのは、「こころ」がしっかりと成長していないからなのです。

健康なこころ

健康な豊かなこころとは一体どのような状態をいうのでしょうか。先ず、精神的な病気(そううつ病、神経症など)や、環境不適応から起こるさまざまな問題行動がないこと。そして、自分の持っている能力を充分に発揮して、充実感や満足感にあふれた精神状態を保っていること。また、病気や問題行動を起こさないように予防することも大切な要件です。

どのような環境の中でも、自分の持っている能力を充分に発揮して、積極的に生きていくためには、バランスのとれた、柔軟な人格の持ち主でなくてはなりません。人格というのは、知性、社会性、自主性、意思、意欲、興味、関心、感情、情緒、活動性、気質などの心理的な特性が、自我を中心にして統合されたまとまり方の特徴だと言われています。このまとまり方の特徴は一人一人千差万別で、その違いが個性と言われるものです。ここで考えなくてはならないことは、自我を中心にしていろいろな心理的特性が統合されているのですから、こころの働きは自我の働きに左右されるということです。

自我といいますが、仏教では、「自」と「我」を区別して考えます。「我」とは、「我の強い人」などと使われますように、自己中心的で我欲が強く、思いやりのないこころを言います。「自」とは、仏教では仏性(ぶっしょう)と言い、完成された人格を言います。お釈迦さまは悟りを開かれ、「一切の衆生、悉く仏性を具有す」と説かれました。つまり、生有るものすべてが仏性を持って生まれてきているというのです。何もお釈迦さまだけが特別ではなく、私も貴方も、犬も猫も、誰も彼もが仏性を持って生まれてきているのです。この意味で、仏教は平等な、平和思想だといわれます。

しかし、持って生まれてきているということが即ちそのものであるということではありません。例えば、ダイアモンドの原石は掘り出された時はいろいろな石が付着し光り輝いてはいません。きれいな宝石とするには、付着している石を取り除き、磨かなければなりません。こころも同じで、生まれて物心が付く頃にはいろいろなもの(欲や我執など)が付いています。「我」といわれるものです。この我を取り除かなければ仏性は光り輝かないのです。我を取り除く過程を、仏教では修行といいます。修行といいますと、どこかの道場に行かなければできないかといいますと、そうではありません。たしかに道場はそれを取り除こうという意思を持った人達の集まりですので、「朱に交われば赤くなる」のたとえのように、そこはやりやすい場ではありますが、道場でなければできないということではありません。「我」を取り除こうという努力は、その意思さえ持って生活していればどこででもできます。
つまり、仏教の立場からすると、豊かな、バランスのとれた、柔軟な人格の持ち主になるためには、「我」を取り除く努力をし、「自」に目覚める、つまり自覚する生き方をするということが大切なのです。「自」に目覚めるということは大変なことですが、そこに向かって努力することが人生であるといえます。

こころをすこやかに育てるには

親の子どもの虐待、育児不安など、子育てに関する問題が社会問題となっています。親が自己のよりよい人格形成に向かって生きる毎日を送っていれば、子どもはそれを見ながら成長するのですから、自然に生きた教育をしていることとなりますが、ここで、親が子どものこころを健やかに育てるために気をつけなくてはならないことを少し具体的に述べてみたいと思います。

人格は人を含む環境との触れ合いを通して少しずつ形成されていくのですから、先ほど述べたいろいろな心理的特性が刺激され伸びるような、豊かな環境や経験が与えられることが必要です。例えば、過保護や過干渉な母親がつきっきりで育てて、友達と遊ぶ機会が少ない状態で育てられたらどうでしょうか。知性の面の刺激は多いかもしれませんが、社会性や自主性などはそこなわれ、場合によっては意欲のない子になってしまうかもしれません。

子どものこころを健やかに育てるには、第一に、情緒的に安定させることです。子どもは幼児の頃からスキンシップを通じて、愛情面での満足を求めます。それが適度に満たされますと人に対する基本的な信頼感を持てるようになり、素直で、安定した人間関係を作ることができるようになります。
第二に、自主性を育てることです。幼児期から自分で何かをしたがる自主性や独立の欲求が芽生えます。子どものやろうとする意欲を大事にし、それが成功するまで、手を出さずに見守る態度と、できた時に褒めることが大切です。うまくいかずに困ったり、放棄しようとしたら、励まして自分の力で克服させるようにさせるのです。結果を急いだり、手出しをすることは禁物です。それは放りっぱなしにするということとは違います。しっかりと見守っていなければなりません。

第三に、社会性を育てることです。同年齢または異年齢の子ども同士の集団の中で遊び、もまれることが、集団の中で自分の力を発揮していくためには不可欠です。子ども同士の欲求が衝突して我慢することも経験します。みんなで力を合わせて目的を達する喜びも知ります。集団から逃避しないで自己の個性や存在理由を主張していくには、幼児期からの友達遊びが何としても必要なのです。

第四に、意欲を育てることです。親があれこれと指図し、子どもをいじりまわすようになってはいけません。子どもは心身の成長に応じて自然にいろいろなことに興味や関心を持つようになります。お釈迦さまが誰もが仏性を具有していると言われているように、内在された仏性は健全な環境や刺激・経験などにより自然に光り輝きだすのです。育つ力は子ども自身が持っているのですから、親は子どもの動きを見守り、指示や援助は最小限にしていれば、自然に力強い豊かな性格を持った子に育っていきます。

最後に、欲求不満への耐性を育てることも必要です。子どものいろいろな欲求がすぐに満たされるような状況ばかりで育ちますと、我慢する力が育たず、我がままで自分をコントロールできない子になります。愛情的な満足の上に立ち、しつけによって欲求を我慢する訓練も必要です。困難にくじけないように、それを乗り越える力を養ってあげてください。


禅の修行

「禅の修行とは何か?」と聞かれたら、あなたはどんなイメージや言葉が頭に浮かびますか? 坐禅、修行、朝が早い、厳しい、裸足、禅問答、悟り、作務、托鉢、雲水、達磨大師、道場、無心、平常心、三昧 ・・・・・ 思いつくままに並べてみまし た。きっとこれらの内に思い当たった言葉があったことと思います。 禅は、鎌倉時代以降、日本の精神文化に大きな影響を与えてきました。知らず知らずの内にも日本人の心の底には禅やその文化が底流として流れ、受け継がれてきています。茶道や華道、それ以外にも、道とつくものの基本はすべて禅の思想をベースとしていると言って過言ではありません。しかし、あらためて禅は何か、禅の修行は何をしているのかと問われると、はっきり答えることができないのが現実だと思います。 禅の修行はとかく厳しさが強調され、特に軍隊生活を経験された方は、禅の道場の序列がはっきりしていることから、軍隊と禅の道場のシステムが同じだとよく言われます。確かに、上の者の言うことは下の者にとって絶対的で、完全に服従することについては似ています。しかし、形は似ていてもその内容は全く違います。軍隊はいざ戦闘となった時、命令が上から下へ円滑に伝わるために服従の形をとりますが、禅の道場の目指すものは全く違います。

例えば托鉢において、私の修行した美濃加茂市の伊深の正眼寺は山の中にありますので、托鉢する地域は美濃太田と関ぐらいが町で、あとは山村です。京都の町などでは連鉢と言って托鉢の僧が一定の間隔で、「法~ 法~」と声を掛けながら托鉢をしますが、田舎ではそのような連鉢をしても 家と家の間隔が離れているのと、道からかなり家が離れているので声が届かず、誰もお布施をしてくれません。田舎を托鉢する時は軒鉢(けんぱつ)といって、一軒一軒、軒先に立ち、声を掛けます。この場合、托鉢区域を何人かで一緒に動くのは効率が悪いので、近くから托鉢をする者、区域の一番遠くへ行って托鉢をしながら帰って来る者、その間を托鉢する者というように区域を分担します。この軒鉢の場合、例えば三名で托鉢をするとします。一番遠くへ行って帰って来る者は誰だと思いますか? 一番近くから托鉢をするものは誰でしょうか?

托鉢に行く前晩、托鉢の組の発表があります。それに従い、それぞれの組の一番古い修行僧(引き手といいます)の所に下の者(引かれ手といいます)が集まり、「よろしくお願いします」と低頭し、托鉢の段取りの説明を受けます。托鉢地域の地図を広げ、一番古参の先輩が引かれ手のそれぞれの托鉢場所を説明してくれます。聞いていると、一番若い私が一番近い所をやるようにとのことです。軍隊や普通の社会では恐らく一番近い所に行く者が一番上の者だと思います。でも、禅の道場では一番近い所に行く者は一番若い者です。私が道場に入って、初めて托鉢に出かけた時、これはとても不思議に思いました。もう三十歳を超えたような先輩が一番遠くへ行って、一番若い自分が一番近い所を托鉢をするのですから、申し訳ない気がしました。他の組の様子を聞いてみると、やはり同じように若い者が一番近くをやるのです。何度か経験すると逆転するというようなことはありませんでした。私が上の立場になった時も、同じように若い者が一番近くを托鉢するようにしました。

禅の道場では、老師も先輩も何も教えてくれません。老師との参禅でも、公案に対する見解(けんげ・見方、考え方)を述べても、よければ頷き、ダメならただ鈴を振るだけで、何も教えてはくれません。ヒントの一つも言ってはくれないのです。先輩に聞いても何も教えてくれません。初めは、何と不合理な、おかしな社会だと思いましたが、修行を続けていると、ハッと気が付きました。禅語に「門より入る者は家珍に非ず」というのがありますが、門とは目や耳のことで、読んだり聞いたりしたものは本当の自分のものではないという意味です。教えられてできたことは自分の力ではありません。自分でハッと気が付いてこそ、自分の力になるのです。禅の道場では、この故に何も教えてくれないのです。こと細かに説明し、教えてくれるのは一般社会では親切だといいますが、禅の立場からすると人に教えることは不親切だということとなるのです。 若い者が近くを托鉢するようにしているのは、禅の修行で一番大切な、老師との参禅を中心に考えているからです。修行の年数の浅い者はとかく心が乱れ勝ちです。参禅することが第一、少なくとも最初の公案を透過することが先ずもって大切ですので、若い者には心を乱さないように、上の者が大変なことは率先して行うこととなっているのです。お解りいただけたでしょうか? 禅の修行道場は決して軍隊と同じではありません。形は似ていてもその意図することは全く異なっているのです。

序列についても同じことが言えます。道場では、席次を単(たん)と言います。二人の修行者(雲水・うんすい)がいれば、必ず単の上下は決まっています。それは道場に入門した順で決まります。一秒でも早く、「たのみましょう」と声を掛けた者が上になります。単の上下は厳しく、上の者の言うことは下の者は必ず受け入れます。極端なことを言えば、高単の人が白い物を黒と言えば、下の者にとってはそれは黒なのです。何故そのようなことになっているかというと、禅の修行は「なりきる」ことが第一の眼目とされているからです。自分の内にある「我」を取り除くためには、先ずなりきらなくてはなりません。老師から与えられている公案になりきるのです。頭のてっぺんから足の爪先まで、寝ても覚めても公案と一つ。この一つになりきった境涯を経験しなければ公案を透過することもできませんし、三昧を自覚することもできません。老師との毎日の参禅を通じ、欲しい惜しい、良い悪い、好き嫌いなど、生まれてこの方、自分が判断の基準としてきたものを否定し、我見を取り除き、本来の自己の面目(仏性)を自覚するのです。なりきることによってこそ、一切合切を捨て切ることができ、執着を離れた禅的体験をすることができます。ですから、禅の道場ではなりきることをとても大切にするのです。白が黒でも、正悪が逆であっても、我見を捨て、とりあえずなりきってしまうのです。掃除をする時は掃除になりきり、お経を読む時にはお経になりきり、托鉢をする時は托鉢になりきり、仕事をする時は仕事、遊ぶ時は遊ぶことになりきることが大切だと言われるのはこの理由からです。

勿論、道場の雲水はみな修行者ですから、間違ったことを正しいことだというような馬鹿げたことを高単の者が言うことはありません。序列の厳然としていることは、なりきる修行がしやすいようにということで行われているのです。軍隊の序列とは全く意味が違います。でも、新到(しんとう・新参者の意)の時、高単の人はとても恐く、五年も修行している高単さんは傍に寄ることもできないほど威厳を感じました。禅堂で坐禅する時、警策でたたかれるからではありません。とにかく威厳がありました。それは修行するという立場での親切さ、そして自らも真剣に修行に励んでいることによってにじみ出てくるものであったと思います。

修業道場は年数を多く数えれば数えるほど楽になるということはありません。少なくとも、私の修行した正眼寺では上になればなるほど大変でした。でも、それは今とても有難い修行をさせていただいたと感謝しています。

の修行のあり方の一端を述べてみました。禅の修行の厳しさは冬に裸足でいることや、朝暗い内に起きることや、坐禅で足の痛いのを我慢することなどではありません。禅は我慢や忍耐力をつけることが目的では決してありませんし、集中力をつけることが目的でもありません。禅の修行は自らの内にある仏性に目覚めることを目指しているのです。

お釈迦さまは生老病死の四苦からの解脱を願って出家されました。そして、当時のバラモン教による過酷な苦行をされましたが、安心を得ることができず苦行を捨て、菩提樹の下で静かに坐禅を組み、悟られました。修行は苦(仏教でいう苦とは思い通りにならないこと)からの解脱です。修行をし、「我」を捨て、仏性に目覚めれば、苦が苦ではなくなります。それは苦が楽になるということではありません。苦を苦としないとでも言ったほうがいいかもしれませんが、修行の前と後とは全くそれに対する意識が違ってきます。

ところで、人間はこの世に生まれて四苦八苦、苦がついて回っています。よく考えてみると、頭のいい人もそうでない人も、美人もそうでない人も、金持ちもそうでない人も ・・・・・・誰でもそれぞれの立場の苦があります。ですから、人生は苦の体験ということができます。苦の体験が人生であるならば、人はみな修行者です。人生、死ぬまで修行だと言われる所以です。私もあなたも、男も女も、年寄りから子どもまで、みんな修行者です。「やなこった。修行なんて糞食らえ。俺は気ままに楽しく人生を送るんだ」などと言っても、孫悟空がお釈迦さまの手の平から飛び出せなかったように、苦の体験をさせられている修行者であるという事実から逃れることはできません。

修行と言うと、とかく厳しい禁欲的な生活を想起しますが、必ずしも禁欲生活を送らなくては修行にならないということはありません。禅の道場で修行する人はその立場で、在家にあって修行する人はその立場での修行をすればよいのです。事実、お釈迦さまのお弟子さんの中には多くの在家の方々もみえました。その中に維摩居士(ゆいまこじ)という大富豪の方もみえ、維摩経によれば十大弟子でさえも維摩居士の法力の前ではたじたじであったといいます。
「そうであったか、自分もこの立場で修行をさせられていたのか」と、先ず自分が修行者であるという自覚を持つことが必要です。そして、執着する心を少しでも捨て、心の三毒(貪り、怒り、愚かさ)に迷わされないように心がけ、本来の自己の面目を見失わないようにしていれば、立派な修行者なのです。誰もが修行者であるという認識に立ち、修行者である生き方をする、それが禅的な生き方なのです。