無我愛塔

このほど落慶した納骨堂を「無我愛塔(むがあいとう)」と名付けました。この名の由来は、実は当山の寺庭(じてい・臨済宗での和尚の妻の呼び方)の在所に関係があります。寺庭の在所は碧南市の西端という所(坂口町)で、現在は「哲学たいけん村無我苑」となっています。そこは、大正デモクラシーといわれ、日本の精神改革運動の盛んな時代、東京を拠点にして、日本全国に向けて「無我愛」を主唱した伊藤証信が晩年(大正14年4月)に構えた居所です。そこを無我苑と称しました。

無我苑の名は、初めは無我愛運動の本部の名称でしたが、無我愛の宣伝活動だけでなく、研究思索の活動が進むにつれ、出入する人々が増え、その人々が東京の住居をも無我苑と呼び、活動の支持者を無我苑同朋と呼び慣わしていたのです。晩年、碧南に居を移しても、そこは無我苑と呼ばれました。

「哲学たいけん村無我苑」は、名誉村長に哲学者の梅原猛氏を迎え、村長代行・顧問に久野昭広島大学名誉教授が就任されています。碧南市坂口町3丁目にあり、近くに応仁寺、油ケ淵花しょうぶ園があります。この施設は瞑想回廊、市民茶室(涛々庵)、研修道場(安吾館)の3ブロックからなっています。瞑想回廊には伊藤証信の活動の紹介や遺品の展示がされ、他に瞑想室やボディーソニックの部屋もあります。この施設は、無我苑のホームページによりますと、「静かな環境に身を置いて、心を落ち着かせ、心の安らぎを得るとともに、みずからを振り返って考え、明日への活力をおこしていただくことを意図している」ということです。哲学たいけん村というように、美術館や博物館のように見学することを目的とした施設ではありませんが、一度ゆっくりと時間をとって訪れてみると面白い施設です。大きな団体で行くより、個人か、せめて小グループで行かれることをお勧めします。証信の業績も「哲学たいけん村無我苑」に行った折に是非御覧ください。

話が少しそれました。無我苑の話に戻ります。伊藤証信が碧南に居を移す時、力になったのは龍燈団といわれる人々です。龍燈団の人々は、この地の杉浦繁一という青年哲学者の周囲に集まっていた青年たちです。杉浦繁一氏は病身で、自分の病体を養い、読書や思索の生活を営むために現在の碧南市湖西町1丁目15番地に家を建て、そこを龍燈窟と呼びました。

杉浦繁一氏の死後、龍燈団の方々と杉浦繁一氏の遺族の方のご好意によりこの龍燈窟に伊藤証信が転居し、無我苑がこの地に移りました。その後、昭和9年12月に現在の哲学たいけん村のある地に移転しました。この移転に際しても、龍燈団の方々や地域の多くの人々のご協力を得たと聞いています。伊藤証信はこの地に移ってからも、満州に渡り伝導もし、戦後も世界連邦アジア会議に召喚されたりして、精神運動を続けました。

無我苑の2代目当主は伊藤慶爾といいます。当山の現在の寺庭のあけみの父です。寺庭は一人娘の一人っ子でした。縁あって私達は結婚しました。その橋渡しをしてくれたのは、愛知大学の「中日大辞典」を編纂した鈴木択郎教授夫妻でした。私達が結婚した時はすでに証信は逝去しておりました。昭和61年10月、慶爾が脳梗塞で倒れました。良いといわれるリハビリの施設のある病院にもかかりましたが、もう再起不可能といわれた段階で、義母からこれからの無我苑のことについての相談がありました。何しろ、寺庭(あけみ)は一人娘の一人っ子ですから、無我苑の後継者はもうありません。その土地をどうするかという相談です。

先程の無我苑の経緯は義父からも聞いていましたので、この相談を受けた時、広く多くの人のためになるような今後の使い方はどうしたらいいのかを考えました。現在の「哲学たいけん村無我苑」は4700平米ほどありますが、市に寄付後に市が買い足した土地もありますのでその全部ではありませんが、約2000平米ほどの土地が無我苑の土地でした。これだけまとまった土地ですので、きっと有意義に使ってもらえるだろうと、市会議員にもお願いし、市に寄付することにしました。当時の碧南市の市長さんは、「昨夜、瑞夢を見ました。このことだったんですね」と、とても喜んでいただきました。

当時、竹下さんだったと思いますが、ふるさと創生のために各地方公共団体に1億円を補助金として出されていた時期でした。その結果、その補助金を使って、現在の「哲学たいけん村無我苑」ができました。せっかく土地を寄付してもペンペン草の生えている公園などにされ、放りっぱなしの状況にされるのではなく、伊藤証信を顕彰していただく現在の施設にしていただきましたことは、本当に願ったり適ったりで、碧南市の対応には感謝いたしている次第です。

丁度その頃、寺内に空家ができ、義母にはその空家に転居してもらいました。その時の義母の寂しさはいか程か、察しがつかない程であったと思います。でも、碧南市のご好意によって義父と義母に対してそれぞれに藍綬褒章をいただけましたことがせめての償いだと思っています。
義父・慶爾は平成5年4月4日に、義母・まちは平成15年9月30日に逝去いたしました。2人は現在、碧南の無我苑の近くの証信夫妻と同じ墓地に埋葬されています。

在所はなくなり、両親も亡くなった今、伊藤家の墓地をどうするかが切実な問題となりました。碧南にそのまま放っておく訳にはまいりませんので、臨済寺に移さざるを得ないと思いました。そこで、はっと閃いたのは、社会一般でもこのような問題がこれからは多くなるだろうということです。少子化が進んでいる現在、お墓を造っても後のおまつりができない方が多くなります。いわゆる無縁墓地の問題への対応も考え合わせた時、そのような方々が安らかに眠ることができる場を造る必要性を感じました。

碧南のお墓におまいりに行った時、その墓碑を見ますと、

【表面】

三世十方全宇宙遍歴

無  我  愛

永劫精進修行者録碑

と書いてあります。それを見て、「そうなんだ! 証信は無我の愛を説いていたんだ!! 伊藤家の墓と納骨堂を一緒にした施設を造り、中に入っているみんなが一緒になって我を無くす修行をすればいいんだ!」と思いました。という訳で、伊藤家の墓地と納骨堂を兼ねた施設にしたのです。ですから、当然、この納骨堂は「無我愛塔」となる訳です。

お墓まいりに来られた方が、「立派な納骨堂ができましたね」「来る度にお墓の界隈がきれいになって気持ちがいいですね」「おまいりの水も近くで汲めるようになって有り難く思います」と、喜んでくださいます。無我愛塔をこれほど立派にしようとは最初は考えていませんでした。この施設の先程の経緯の話を関係してくださった方々にしたところ、みんなとても協力的に、親身になってくださいました。仕事をしてくださった業者の方々のいろいろと貴重な意見を聞いている内に、段々と立派なものになってしまったというのが本音です。
本年9月に義母・まちの3回忌を行い、それを機にこちらに改葬しようと思っています。

余談ですが、「お寺はいいなぁ。あんなに立派なお墓を造ってもタダだから」なんて言わないでください。しっかり貰うものは貰っています。母・保子は、「先代和尚の供養と、自分達がここまでやってこれたのは小笠原の殿様のお蔭だから」と言って今回の工事に対して寄付をしてくれましたし、寺庭は伊藤家のお墓でもあるのだからと、遺産の中から寄付をしてくれました。いただけるものは拒まず、有り難く頂戴いたしました。